ふつうってなんだろう

NHKの番組が好きだ。
最近番組で発達障害を取り上げていたり、「ふつうってなんだろう」というミニ番組に出会う。そういえば発達障害が注目されるようになったのはいつのことなのだろう?2005年頃から病気として細かく診断されるようになったらしいが、発達障害者支援法が施行されたせいか

日本はとりわけ「みんなで同じことをしよう!」文化で、できなければおかしいと思う風潮がある。みんなと同じことができなければ、はたして人間として劣っているのだろうか?劣っていると決めているのは誰か?どんな個性でも、幸せの中に生きている人がいるはずだ。

できないことを考える前に、できることを考えてみよう。
自分ができるからと言って、他人ができるとは限らない。そう決めているのは自分自身であって、他人にはできないことを当たり前にやっていることがある。

私は想像(妄想?)することが得意だ。
マンガや小説を読んでいると、頭の中で映像に変換される。話が深く入ってくるから、同じ本はあまり読み返さない。あでも、それを表現する(絵や文章にする)のは好きだけどもうまくはない。
たぶん空間認識能力も、想像力が補ってうまくできる方だと思う。設計図面を頭の中で展開することができる。手芸の型紙を、頭の中で作り、立体にすることができる。人に話を聞くときも、その人の生活を想像し、これから必要なことを想像できる。だから行動に移すことができる。
これが別の方向に働くと、悶々と悩み続けたり、怖さを想像して動けなくなったりする。

われながらおもしろい。

「自分ができるから、あなたもできるでしょ」ではないのだ。「あなたもできるでしょ」と思うから、やってもらえなかったとき腹が立つのだ。相手にはなにも伝わっていない。

発達障害って、それを苦に思うのなら病気(障害)になるし、それを個性と思い、できることをのばして幸せに暮らす人もいるって、その事実が、ものすごく分かりやすく表現されている。

世界中の人が自分と違うことを理解して、うまくつきあえたらいいのにね。

先日、そらさんの叡智のバトンに参加してきた。
世の中に数ある哲学の本は、字面だけでアタリマエを解く。そのときは「ああ!」と思うけど、そのうち消えていく。本を読んでも言葉が流れていくだけで、漠然としすぎて、自分のもの(こと)にするのは難しい。
そらさんは、個人が持ち寄る問題についてアタリマエの視点で問う。バトンの場でなら、自分自身の問題が具体的で、だから自分のものとしてアタリマエなことを実感できる。
この実感できる、という体験が大切。自分のものにするための実感を繰り返す。それが私にとってはすごく楽しい。そらさん以外の人もできることなのかもしれないが、私はそらさんしか知らないから、そらさんが気になるのだと思う。たぶん周りの人には怪しい宗教家にしか見えないかもしれないけども、イエスやシッダールタと問答を繰り返す感じに似ているんじゃないかなと妄想する。
私が気になるからと言って、他の人も気になるかと言ったらそうではない。ただ会わないと感じないもの、話さないと伝わらないものがあるから、もし気になるなら、彼にあってほしいな。
《そらに》人生のグランドデザイン

そういう点では、私も会って話すことを重視している。会いたい人に会いに行く。
隣りにいるだんなには、なんで難しいんだろっかね。笑