あこがれの仕事のために

今の年になって「仕事の選び方を間違ったかな」と思うときがある。
私には楽しいこと好きなことを仕事にした経験があるからだ、私の活動を仕事にしている人を知っているからだ。公務員になっていればよかったかな?とも思うが、公務員は配置換えで仕事内容が変わるから難しい。

年を取ってから知るあこがれの職業への道筋、それは本当なら子供のときに知るべきものなんだろうな。成功している憧れの人が、どうやってそこまで行き着いたのか、それをたくさん知っていたら、子供が進路を決めるときの道標になる。なにを勉強していたか、なにを得意としていたのか、いつからやっていたのか、どういう学校に行ってどこに就職したのか、などなど。将来なりたいものが、学校の先生とかパン屋さんとか、ケーキ屋さんとかスポーツの選手とか、そのへんはきっと親の職業だとか近所の友達の家とか、テレビで見るスポーツとかという理由で身近で想像しやすいのだろう。でも仕事はそれ以外にもたくさんある。

「勉強すればいい」って親の言葉だけでは足りなすぎる。
親もその単語の深いところまで知っておいて、子供に教えるのがいいよね。
勉強っていうひと言ではおさまりきらない情報があるはず。

なんて、子供のいない夫婦が話してみた。
子供がいる親の苦労を、産んだ子供が大事だということも、私は直接知らない。でもなんとなく想像はできる共働きの大変さと、家庭を取り巻く環境の格差。
生きるためにお金が必要で、働くには環境が整っていなくて、子供を大学生にするには学費がかかりすぎる。大学生にならない選択はなぜできないのか。

人を育てることに力を注げなくなった社会がある。
仕事は見て覚えろなのか、そこは知っていて当然なのか、社員は使い捨てなのか、それでは技術も継承できない。仕事は技術職だ。
これは後継者がいないと言い出す人が多い、将来に関わる問題のひとつ。

その末端の方で、私達はどうしたらいい?私はどうしたらいい?
いま何もできなくても、いつも想っていれば、なにかできるきっかけを見つけることが、かならずできる。

今日は五泉の坂田家に行ってきた。知人が「トゲソの観察会と坂田家一般公開」という企画をしていた。ちょうどお宝の古伊万里などをみんなで見るところで、骨董品を見たり坂田家の説明を聞いたり、庭の大きな大きな欅の樹に触れてきた。管理するのが難しくなっていく文化財、骨董だけではなく生活用品も残しておきたい。よくばりだな、私は。